羊飼いは我が羊を知り、我が羊は我を知る
キリストは善き羊飼いとして、自らの命を犠牲にして羊を救う
キリストは善き羊飼いであり、ご自分の羊を知り、ご自分の羊に知られている。キリストと父なる神との関係は、まさに父が子を知るように、子が父を知っている。キリストは自らの命を捨てて羊を救うのである。
キリストは、「この囲いの外にもまた、わたしの羊がいる。その羊もわたしは連れてこなければならない。そして、彼らもわたしの声を聞くであろう。それによって、ひとつの群れ、ひとりの羊飼いが出来る」と告げられた。父なる神が、キリストが自らの命を捨てるからこそ、キリストを愛しておられる。このことを通して、ひとりの羊飼いの下に、ひとつの群れが形成されるのである。
羊飼いの招き
私たちは誰もが一度は聞いたことがある良き羊飼いの言葉に導かれています。「私は良き羊飼いである。私は私の羊を知り、私の羊も私を知っている」。この言葉には、深い意味が込められています。
イエスは自らを良き羊飼いと呼び、父なる神との深い絆を説きます。そして、父の愛のために自らの命を捧げると告げるのです。この献身的な姿勢こそが、人々を導くための力となるのです。
イエスはさらに、この fold(群れ)に属さない別の羊たちも導くと述べています。それは、この世界に散らばる全ての人々を包み込む、一つの大きな群れを形成することを意味しているのでしょう。ここには、宗教や文化の違いを超えた、全ての人々を愛し、共に歩む神の心が表されているのです。
父なる神との深い絆と人々への愛情
イエスは自らの命を投げ出すことで、父なる神の愛を示します。「私はなぜ父に愛されるか。それは私が自ら命を投げ出すからである」と述べるイエスの言葉には、深い思いが込められています。
この献身的な姿勢は、単なる受け身の犠牲ではありません。むしろ、イエス自らが「私には命を取り去る者はおらず、私から自ら捨てるのである」と語るように、主体的な選択なのです。
このように、イエスは父なる神との深い絆と、全ての人々に向けた愛情を持ち合わせています。これこそが、良き羊飼いとしての本質なのだと言えるでしょう。
人々は、このような献身的で慈悲深い導きに導かれ、一つの大きな群れとなるのです。神の愛に包まれ、共に歩む道を見出すのです。
コメント